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【小説】風見千歳の一生【約20000文字】

小説の主人をモチーフにしたイラスト(筆者によるAI作成画)

【約2万文字-平均10分-】

 

 

告白

夜の繁華街、雨音が街路に響き渡る。時計の針は19時30分を指し、冷たい雫が地面に跳ね返る。どこかで聞こえる喧騒も、この場所では遠い背景音に過ぎない。彼は路地裏で立ち尽くし、雨に濡れた頬を伝う雫がその心情を映し出していた。

「もう一度やり直そうって…いまさらなんなんや!」彼女-風見千歳(かざみちとせ)-の声が鋭く響く。千歳の目には怒りと哀しみが入り混じり、真っ直ぐに彼を見据えていた。

「あの女に振られて寂しくなっただけやろが!」千歳はさらに言葉を投げつけ、バチン!と平手を張る。その声には裏切られた心の痛みが滲んでいた。

「ウチはあんたのおもちゃやないんや!なめとんか!」千歳は叫び、涙が雨と混じり合う。彼女の強い言葉に彼はただ立ち尽くすしかなかった。

「わかったから、とにかく来てくれ!」彼は焦りと共に言葉を紡ぎ、千歳の手を引っ張り近くの喫茶店へと駆け込んだ。店内の温かい空気が二人を包み込むが、千歳の心の冷たさは拭えないままだった。

『あん!?何やねん、いきなり引っ張んなや!』

彼の手を振りほどこうとしながら、怪訝そうな表情で彼を見つめる。

『一体何がしたいんや?もしかして...また裏切るつもりか?そうやろ!?』

怒りと不安が入り混じった表情で彼を睨みつける。千歳の瞳からは、これまで抑え込んできた怒りと憎しみが滲み出ている。

『ウチは、あんたなんかに振り回されたくないんや!二度と近寄らないで!』

テーブルの上に両手を突き立て、上体を前のめりにしながら、吐き捨てるように言い放つ。

『・・・俺のせいでお前が雨に濡れたら可哀想やろが…』

彼はそう言いながらテーブルに備え付けられたタブレットを操作した。

『はぁ!?なんやねん、ピコピコしながらそんなこと言われても、なんとも思えんわ!』

一気に立ち上がり、彼の胸ぐらを掴む。

『ウチはあんたに裏切られて傷つきすぎたんや!もう二度と信用なんかできん!』

怒りと憎しみに満ちた表情で、彼を睨みつけるが、心の奥底にある、彼に対する切ない思いが滲み出ている。

『グッ…ちょ、ちょっと待て…』

彼はゴソゴソとポケットを漁って錠剤を取り出し、水で流し込んだ。

『な、な、何やねん!?アンタ、一体何をしてるんや!?』

強い懸念の色が浮かび、今まで見せていた冷たい表情がいっきに消えて消えていく。千歳は、彼の行動に心配と不安を隠せずにいる。

『う、うう…俺はステージ4や…わかったのは一昨年…お前と別れる直前やな』

『ステージ4やて!?なんのことやわからん...』

千歳は言葉を失う。ただ呆然と見つめるだけで、震えが止まらない。

ただただこのまま彼を失ってしまうかもしれないという恐怖が千歳の心を支配し、かつての怒りは、一瞬にして消え去った。千歳の表情にはただ悲しみと絶望感が浮かぶ。

『な、な、ほ、ほんまなんか?ウチ...ウチは何も知らんかった...』

必死に涙を堪えようとするが、頬を伝う涙が止まらない。

『なんで...なんでそんなこと、ウチに言わんかったん!?』

掠れた声で問いかける。長年抑えつづけてきた感情が、今度は一気に爆発しそうになる。

『どうして...どうして一人で抱え込んでたんや!?なんでや!』

テーブルを強く叩きながら、彼に詰め寄る。憎しみが千歳の言葉を激しく歪ませている。

『ほんまは...アンタは、ウチなんか信用もしてへんし、全然興味もないんやろ!?』

憎しみと悲しみが錯綜し、千歳の心を完全に支配してしまっているようだ。

『・・・ああ、お前になんかまったく興味ないわ』

店員がアイスコーヒーとメロンソーダとクリームパスタを持って来た。

『お、お、お前のことなんかなんにも知らん!』

届けられたメロンソーダとクリームパスタを見つめる千歳の目が潤む。

『こんなん...ズルいわ...』

震える手でフォークを握り、パスタをくるくると巻き始める。

『・・・なんでウチの好きなもん覚えとんねん...』

声が震え、フォークを持つ手が止まる。

彼への想いと現実の残酷さの間で、千歳の心は引き裂かれそうになっている。

『うっ…グッ…ちょ、ちょっと待て…ふうぅ…ハァハァ…ふう、すまんな』

『アンタ...ほんまに、きついんやね...あかんわ...いくらアンタに怒っても、アンタの痛みもウチの痛みもどないもならへん...』

アンタの苦しむ様子を見て、千歳の目には深い憂いが宿る。

『そ、それでよ、これ俺の家の鍵と住所や、ほんで、金庫の番号がコレや…これをお前に託すわ。別に嫌やったら捨ててもええねん…大したもんでもないし』

『っ・・・こんなものをわざわざ託してくるってことは、ほんまなんやな...』

震える声で続ける千歳の目には涙が滲み、頬を伝って流れ落ちていく。

『わかった…絶対に大切に保管させてもらうから...』

これが彼の最後のお願いだと受け止めた千歳の表情には、強い決意が宿っている。

『せやけど...アンタは最低やわ...』

『そや…あの時…怖くなって逃げてしまったんや。すまん。』

『でも...ウチも、ちゃんと話も聞かないで癇癪起して…あの、これからは一緒にいてくれへん?』

彼の死を前に、千歳は自分も傷つきながらも、彼との最後の時間を共有したいと本気で望んでいる。

『そ、そない言うてくれるんか…あ…ありがとう、でも、俺もまだやる事があるんや、歩けるうちに、挨拶せなあかんねん…昔の同級生やろ、世話になったポリ公やろ、あのタコヤキ屋のおっさんやろ…それらを終えて余裕があったら、最後にまたお前に会って、少しの時間だけ、もう一度やり直しても…ええ…かなぁ…』

彼のテーブルの上に、ポタポタと雫が落ちているのが見える。

『アンタ...分かった。アンタが済ませたいことを全部やり遂げるまで、ウチは待ってるわ。』

彼の願いに千歳は言葉を失う。目に涙が浮かび、それが頬を伝って落ちていく。

『うん、ウチがアンタの最期まで見送ってあげる。アンタの残りの人生を、少しでも幸せにしてあげるからね。』

彼との思い出が蘇り、切ないほどの感情が込み上げてくる。

千歳は滲む視界の中、喫茶店を後にして小さくなっていく彼の姿を目に焼き付けた。

 

遺留品

『アンタからの連絡が途絶えて、もう1か月か...ほんまに会えへんのやな。』

千歳の心は何か欠けているような寂しさに包まれながらも僅かな期待を胸に抱き、彼に教えられた住所を頼りにアパートへとやって来た。

『ウチにもう一度やり直そう言うてくれたのに、なんやねん…クソッ!居たらシバキ倒したるんやからな…絶対に居てよ…』

玄関のドアを開け、暗闇の中へ足を踏み入れる。

『アンタ、やっぱり居らんのやね…』

不安げな表情で部屋に入ると懐かしい香りに包まれ、彼との思い出に心が引き裂かれそうになる。

思い出がよみがえるほどに、無力感を強く感じ、化粧がボロボロになってしまう。

『アンタ...絶対に会いたいのに、会えへんなんて...ウチ、もう何もできへんのかな...』

小さな金庫を見つけ、教えられた番号をダイヤルするとカチっと鳴り、恐る恐る開く。

金庫の中には、付き合いたての時に撮った2人のプリクラや写真、当時千歳が欲しがっていたクマのぬいぐるみや数枚の宝くじと、一冊の日記が入っていた。

『な...なんやこれ...アンタ、ずっとウチのこと...』

懐かしい思い出が鮮明に蘇る。かつての幸せな二人の姿に、千歳は声を詰まらせる。クマのぬいぐるみを抱きしめながら、彼の優しさと切なさが千歳の心を突き刺してゆく。

日記には、ガンが発覚し、ひどく落ち込み、若い千歳を未亡人にしたくないという理由から別れる理由を何度も考えた形跡が見て取れ、ところどころポツポツとした水染みが出来ていた。

千歳と別れてから、定期的に千歳が好みそうな場所を訪れ、姿を遠くから見かけては元気そうだったとか、飲み屋で千歳が潰れたときにこっそり横で酒を飲んだと嬉しそうな筆跡で書かれていた。

千歳は涙で滲んだインクの跡に触れながら、大粒の染みを増やしてゆく。

『アホやな...アンタって本当にアホやな...未亡人にしたくないって...そんなことより、ウチはアンタと最期まで一緒にいたかったのに...』

彼が残した全てのものに、千歳への深い愛情が込められていることを感じ取り、嗚咽を漏らす。

『ああ、あん時…ウチが酔っ払った時の…あの手は...アンタやったんか...』

千歳は彼がずっと想い続けてくれていた証拠を目の当たりにして、心が張り裂けそうになっていた。あるいはもう、張り裂けていたのかもしれない。

『ウチな...アンタのことを一生忘れへんから...どこにおっても、ウチはずっとアンタのことを想い続けるから...』

雨の音が静かに響く部屋で、千歳は金庫の中身の一つ一つを大切に抱きしめていた。

ふわっと暖かな風が千歳を包み、ふと窓を見ると大きな虹が出ていた。

千歳は、彼からの贈り物のように感じ、しっかりと虹を見つめる。

『アンタ...ほんまに、ありがとう...』

鼻水をすすりながら震える声には、彼への感謝の気持ちが込められていた。

 

思い出に寄りそう

(昨晩の夢では、アンタとデートしているところを見たような...。懐かしい思い出に心が痛くなったわ。ウチにとって、アンタはもう二度と会えない大切な人なんやな…。)

目じりに泪の筋を残して一日が始まった。

千歳は思い出に寄り添いながら、ゆっくりと朝の支度をしている。

彼が最期に挨拶したいと言っていた、タコヤキ屋のおっさんの顔を見に行くことにした。

彼と暮らした懐かしい駅前を歩き、見えて来た小さなタコヤキ屋台。

店主の表情は相変わらずだが、懐かしい顔を見ると、少しだけ心が軽くなるような気がした。彼と過ごした思い出を、また一つ胸に刻むことができ、少しだけ嬉しく思えた。

『あ、千歳ちゃんやないか…な、なぁ知ってるか?アイツこないだウチに来てよ、その…悲しい話やったもんで、俺励ましたろう思うて…タコ焼き食え!言うてあげたんやけど、一口も食わんで『千歳がきたらおごってくれ』言うて金だけよこしてきてな、ってことで、ホイ、これアイツからのおごりや』

『なんやて!?ウチが来る事予想してたんか…まったく...』

店主の手からタコ焼きを受け取り、そっと口に含む。彼と一緒に味わった懐かしい味に、千歳は思わず目を細める。

『ふふ...ああ、この味やこの味や、ホンマにウマいわ』

『当たり前けど、おおきに。そ、そやけど、あの、なんちゅーか、残念やったな』

『残念って...何が残念なんや?おっさん何を知ってるんや!教えてくれ!』

千歳は店主の言葉に首を傾げながらも、店主の表情を注意深く観察する。

『そ、そうか、知らんのか、ほな、ちょっと店閉めるわ…ついておいで』

10分程歩くと、千歳の良く知っているアパートに到着した。

『アイツな、迷惑なことにここで倒れてて騒ぎになってたらしいわ、客が言うてた』

『こ...ここで...倒れとった...?』

千歳の足が震え、その場に崩れ落ちそうになる。かつて二人で描いた相合傘の落書きを囲む大きな丸を見つめながら、千歳の目から涙が溢れ出す。

『アホや...アホやで、アンタ...なんでウチに連絡してくれへんかったん...なんでこんな所で...一人で...』

壁に手を当て、彼が最期に見た景色を感じ取ろうとする。二人で描いた相合傘の落書きは、まるで二人の思い出を永遠に刻むかのように、今でもはっきりと残っている。

『アンタ、ここに来たかったんやな...ウチとの思い出の場所に...ウチらが一緒に暮らしてた場所に...』

震える指で相合傘の落書きを撫でながら、千歳は過去の幸せな記憶を思い返す。

彼の最期の場所がここだと知り、千歳の心は張り裂けそうになる。でも同時に、思い出の場所で最期を迎えたことに、切ない安らぎを感じていた。

『ほ、ほな、千歳ちゃん、またウチにも来てや』

タコヤキ屋のおっさんは千歳にポケットティッシュを手渡してそそくさと帰っていった。

『ありがとう...タコヤキ屋のおっさん…』

千歳は受け取ったティッシュで涙を拭いながら、タコヤキ屋のおっさんに感謝の言葉を贈る。

彼の最期の場所に立ち、少しだけ自分の心の内を整理できたことで、少しずつ前に進むことを決めた。

誰にも知られる事の無い相合傘の落書きは、二重丸で囲まれていた。

 

さようなら

『…やっぱり、アンタの実家に寄らなあかんわ!』

千歳は、彼の実家へ訪れる決意をした。

お互いに存在を知り得ている間柄とはいえ、婚姻関係にあるわけでもない千歳は緊張しながらも、ゆっくりと玄関のベルを押す。

『最後を聞くのは怖いけど、せめて線香くらいは…』

ベルの音が響く中、千歳は両手を固く握りしめる。

玄関が開き、彼の母親が姿を現した。千歳は慌てて深々と頭を下げる。

『ああ、千歳ちゃん!千歳ちゃんや!ううぅ!はよきて!』

千歳の手を引っ張ってドタドタと部屋へ向かっていく。

『お父ちゃんそこどいてや!千歳ちゃんや!』

千歳の目に入ったのは、強力な痛み止めの点滴を打ちながら横たわる彼の姿だった。

『あ...アンタ...!?』

千歳は目の前の光景に言葉を失う。ベッドで横たわる彼の姿を見つめ、これまでの怒りや悲しみ愛しさ寂しさ、全ての感情が一気に押し寄せてくる。

『う...うそやろ...アンタ、まだ生きとったんか...?ウチに何も言わんと...こんなとこで...』

千歳は震える足でベッドに近づき、彼の手を優しく握る。温かみを感じる手に触れ、これまで溜め込んでいた感情や恐怖心が一気に溢れ出す。

『アホか!なんでウチに言うてくれへんかってん!?ウチがずっと側におったのに...ウチが...ウチが...』

強い感情が止まらない。千歳は彼の手を強く握りしめながら、必死に言葉を紡ぐ。

『ウチな...アンタの金庫開けたで。アンタずっとウチのこと想ってくれてたんやな。ウチもずっとアンタのこと想っとってん。だから...だから...最期くらい、ウチと一緒に...』

千歳の声は震えながらも、強い想いを込めて語りかける。アンタの最期の時を共に過ごせることに、感謝と切なさが込み上げてくる。

彼は目を薄く開き、ひょろりとした弱弱しい手で千歳の頭をぽんと撫で、千歳の腕に震える指先で『スマン』と書いた。

『な…謝らんでよ...アホ...そんなん…いらんねん…』

千歳はその手に自分の頬を寄せ、冷たい手に温もりを与えながら、これまでの想いが滝のように溢れ出す。

『...もう謝らんでええよ。アンタがウチのこと想ってくれてた事やウチの気持ちも、全部ちゃんとわかったから。アンタはずっとウチのこと見守ってくれてたんやから...もう謝らんでいいの。』

彼の手を両手で包み込みながら、震える声で語りかける。

『ウ...ウチのことを大切に想ってくれて...ほんまにありがとう。ウチ、やっぱ好きやねん...あんたやなきゃあかんのよ…』

千歳は優しく彼の手を握り締め、精一杯の愛情を込めて微笑みかける。最期の時を共に過ごせることへの感謝と、永遠の愛を誓う決意が込められている。

『もう...だから...だから...安心して...』

彼は千歳の手の甲に『オオキニ シアワセ 』と書いた。

『ありがとう...アンタこそ、ありがとう...』

千歳は手の甲に書かれた最期の言葉を見つめながら、彼の手をそっと胸に抱く。ぬくもりかけてた手が、少しずつ冷たくなっていくのを感じる。

『ウチな...アンタと出会えて、ほんまに幸せやった。アンタが最期まで、ウチのことを想ってくれて...アンタの気持ち、ちゃんと受け取ったで。もう二度と会えへんのは寂しいし耐えられへんけど、アンタの想いは、ウチの中でずっと』

ガタガタと震える手で頬に触れ、最期の別れの言葉を紡ぐ。これまでの思い出が、走馬灯のように心の中を駆け巡る。

『...もう安心して…け…けど...けど...もう一度起きてくれんかなぁ…』

千歳は、彼の額にそっと唇を寄せた。これが最期の別れだと理解しながらも、彼からの最期の贈り物である「シアワセ」という言葉を、しっかりと心に刻み込む。

『ほんまに...ほんまにありがとう。アンタのおかげで、ウチは幸せやった。これからも、ずっとずっと...愛してるで。』

 

そして数日後、本当の最後の日が訪れた。

 

『アンタ...ウチ来たで。今日は、アンタのためにたくさんの花持ってきたんよ。』

千歳は静かに棺に近づき、一輪一輪丁寧に花を詰めていく。白い百合、赤いバラ、そして二人で見た夕焼けの色に似た黄色い菊。それぞれの花に想いを込めながら。

『なぁ...覚えとる?ウチらが同棲して1年めの時、アンタがくれた花束のこと。あの時はほんま、嬉しかってん。だから今度は、ウチがアンタにたくさんの花を贈りたいねん。』

手が震えながらも、千歳は丁寧に花を並べ続ける。

『ウチな...アンタと過ごした時間全部…大切な宝物やってん。辛いことも、楽しいことも、全部全部よ。これからは、アンタの分まで、しっかり生きていくからな。アンタが残してくれた想いも、ちゃんと受け止めたんやで...安心して眠ってな。』

周りの目を気にせず、千歳は静かにボタボタと涙を流しながら、最後の花を棺に添える。この場所で、最期の別れを迎えることになるけれど、千歳は彼の存在を永遠に心の中で生き続けさせることを誓うのだった。

 

火葬が終わり墓地への納骨が厳かに行われた。

 

墓石に手を添えながら、千歳は静かに目を閉じて祈る。

『アンタ...ありがとう。ほんまに、ありがとう。ウチ、これからも、アンタのことを忘れることはないわ。アンタの想いを胸に、前を向いて生きていくからね。』

『ウチ、アンタが望んだ未来をきっと勝ち取るから。そして、いつかまた会えるその日まで、待っててな...』

 

選択肢の一つとして

千歳の生活も少し落ち着いてきて、冷静に日記を読み直していた。

すると、驚愕の事実を知ることとなった。

『な...なんやこれ...精子バンク...?アンタ、こんなもん...』

日記を握る手が震える。

日記には随所に彼の別の想いがちぐはぐに込められていることを知り、千歳の心は複雑な感情で揺れ動く。未亡人にさせたくないという気持ちと、抗がん剤治療を始める前に自分の生きた証たる可能性を残したいというその相反する想いに触れ、千歳の胸が締め付けられる。

『ほんまアンタって...こんな選択まで...』

日記の隅に書かれた登録番号を見つめながら、千歳は深いため息をつく。

『せやけど、石橋を叩きながら先手を打ちたがる性格やから、色んな事を考えたんやろな…不要なら不要でかまへん、なんでも残したいって書いてあるし…』

彼に残された時間の中で千歳との将来を考えてくれていたことに深い愛情を感じると同時に、この選択肢を残して逝ったことへの不満も湧き上がってくる。

『確かに昔、アンタの子を産みたいって散々言った事があるわ。でもな...アンタがウチに残してくれた最後の選択肢...今はまだ何も決められへんけど...アンタの想いは、ちゃんと受け止めさせてもらうで。』

千歳はそっと日記を胸に抱き締める。彼が残した選択肢の1つを、これからの人生の中でどう活かしていけるのか、千歳には、彼の面影をずっと背負ってシングルマザーとして生きる覚悟や、そこへの希望は見つけられなかった。

ましてや、それぞれの両親の気持ちもあるからこそ、1人で決められるような簡単なことでもない。だからこそ、日記にも受け取る人によっては残酷な選択肢を残した事が、良かったのか悪かったのかについての苦悩が何度も綴られていた。

 

49日法要に出ると、彼の母親がこの件について千歳に伝えた。

『千歳ちゃん、あのアホ、なんちゃらバンクなんて変なもんに手出してたみたいやねんけど、気にせんでええからね、千歳ちゃんは千歳ちゃんの人生をいくんやで』

彼の母親の言葉に、千歳は少しほっとした表情を浮かべる。その温かい言葉に心の重荷が少し軽くなった気がした。

確かに彼が残した選択肢は、彼の両親にとっても千歳にとっても、大きな希望になるかもしれない。でも、大きな絶望となる可能性もある。だからこそ、今はそのことを考える時期ではないと千歳は考えていた。

『ありがとうございます...。彼が残してくれた大きなキモチは、ちゃんと受け止めさせていただきます。ウチはその想いを胸に、しっかりと前を向いて歩んでいきたいと思います。』

千歳は、これからの自分の人生に対する希望を求めるためにも、一歩ずつ前に進んでいく。

 

小さな喫茶店

あれから3年が経った。

30歳になった千歳は彼の残した遺産を元手に興した、小さな喫茶店の経営が安定してきていた。

恋愛の方はと言うと、この3年で数人と交際してみたもののしっくりこなくて独身のままだった。

『なんでウチだけ1人やねん…』

カナカナと鳴くセミの声が聞こえ、千歳は少しの寂しさを感じている。

こうして日々を過ごしていると、時折彼の姿が脳裏によみがえってくる。

『あれからもう3年も経ったんやね。ウチ、夢を形にできてるけど...やっぱりなんか、足りないものがあるみたいやわ。』

カウンターに並んだコーヒーカップを眺めながら、千歳はため息をついた。彼への想いを胸に刻んで前に進んできたが、どこかうまく埋められない空虚感が残っているのを感じていた。

『結局、ウチ、アンタの事ばっかり思い浮かんでしまうわ...』

(・・・もしかするとアンタが望んでいたのは、ウチ自身の幸せを見守ることだったのかもしれない。それだけが全てではなく、ウチ自身が笑顔で生きること、それが本当のアンタの望んでいたことなのかもしれない…ほな、少し笑ってみたろか・・・)

千歳は微笑みを浮かべながら、コーヒーを口に運んだ。

 

セミの鳴き声がピタっと止まり、静寂を切り裂くかのようにカランカランと喫茶店の扉が開いた。

『1人やねんけど、ええか』

『あら、お客さん!どうぞお気軽にどうぞ。』

千歳は笑顔を浮かべながら、客の方を向く。客が一人であることを確認し、丁寧な対応で迎え入れた。

この3年間、少ないアルバイトに手伝ってもらいながら喫茶店を切り盛りしてきた千歳は、お客様一人一人と向き合い、丁寧なサービスを提供することを心がけている。

彼の想いを忘れずに、自分らしく歩んでいこうと決めた結果が、この喫茶店だった。

『何か飲み物をお持ちしましょうか?おすすめのコーヒーなんかはいかがでしょうか?』

客の注文を待ちながら、千歳はカウンターの上のメニューを指さし、親切に案内する。

この小さな喫茶店は、千歳にとって大切な居場所となっており、ここで自分の人生を全うしていきたいと願っている。

『あ、ほなアイスコーヒーで、あとタバコ吸えます?』

『かしこまりました。ほかにお食事などはいかがですか? お手数ですが煙草を吸いたいのでしたら、あちらの喫茶店の外の喫煙所でお願いできますでしょうか?』

『あ、外に灰皿あるならええねん、ありがとう、ほんならクリームパスタで』

『はい、分かりました。外の灰皿をお使いいただけますよ。それでは、クリームパスタをご注文いただきありがとうございます。しばらくお待ちくださいね。』

千歳はにっこりと笑みを浮かべ、注文を受け取る。客の気持ちを理解しつつ、自分のスタイルを守る柔軟な対応ができるようになったのだ。

『あ、そうそう。本日のオススメケーキもぜひお試しくださいね。ふわふわの食感が人気なんですよ。』

『ハハハ、そんなに食えへんよ でもまたこれたら頼むわ』

『そうですね、次はぜひお試しくださいね。ほんまに、ウチのケーキはおいしいんですから。』

千歳は客の言葉に頷きながら、にっこりと笑顔を向ける。以前のように強がることはなく、落ち着いた態度で接する事を心がけているのだった。

『ふぅ...なんかあの人、アンタを思い出させるわ。』

千歳は窓越しに、客の姿を眺める。

外で一服する姿に彼の面影を重ね、懐かしく感じていた。

『ね、アンタ...ウチ、今日もこうして喫茶店を営んでるんやけど、きっとアンタは喜んでくれてるかな。ここでたくさんの人と出会えるし、楽しく仕事ができてるよ。こないだはタコヤキ屋のおっさんが来たんやで、秘伝のタコヤキの作り方教えてもらったわ』

色あせた写真にこっそりと話しかけるのが、千歳の日常となっていた。

先ほどの客が席に戻るのを確認し、千歳はクリームパスタとアイスコーヒーを持っていく。

『お、パスタ…美味いな…』

『そうですか!ウチのパスタはホントに絶品なんですよ。お客様にも大好評なんです。』

嬉しそうに頷きながら、千歳は客の感想に笑顔で応える。

『内装も落ちついててええなぁ』

『ほんと、ここは私にとって大切な居場所なんですよ。大切な人が望んでくれた未来を、ここで少しずつ実現できているみたいで...ほんとに、感謝の気持ちでいっぱいです。』

客の反応を窺いつつ、千歳は自分の喜びを表現する。

『そうなんや …そないな事を…うん、ほんならまたくるわ』

客がカランカランと扉を開けて出ていくと、止まっていたセミの鳴き声がまた一斉に鳴きだした。

『ちょ、ちょっと待って...お代を!』

千歳は慌てて店の外に飛び出すが、客の姿はもう見えない。

『くそ!やられた!悔しい!!』

こういったことは時々あるので対処法がないものかと千歳は考えてはみるものの、良い案は見つけられなかった。

 

大きな命

『はぁ...なんだか最近、ストレスがたまっているみたいやわ。でも、きっとアンタが望んでくれていたのは、ウチが幸せに生きることやろ。』

膨らんだお腹を庇いながらカウンターに腰かけ、遠くを見つめながらメロンソーダを空にした。

これからの未来に不安を感じてはいるものの、この喫茶店があれば、きっとなんとかなると信じている。

『ウチ、この子を幸せに育てていくからな。アンタも一緒に見守ってくれるやろ?』

 

カランカランと喫茶店の扉が開いた。

『邪魔するで~1人やねんけどええか?』

『えっ!? 邪魔するなら帰ってや。お客さんやったらどうぞ、お好きな席でお寛ぎください。』

千歳はノリに合わせながらも、丁寧に対応する。

『お飲み物やお食事はいかがなさいますか? 新作のケーキもおすすめですよ。ぜひご賞味くださいね。』

ほっと笑顔を見せながら、千歳は客の要望を待つ。

『ほな、レイコとクリームパスタを頼むわ…待ってる間に外の灰皿借りるで』

『はい、かしこまりました。アイスコーヒーとクリームパスタ、お持ちしますね。外の灰皿、お使いいただいてかまいませんよ。ゆっくりお寛ぎください。』

客の注文を受け取りながら、千歳はにっこりと笑顔を向ける。

千歳は膨らんだお腹を庇いながらも、しっかりとした接客を心がけている。

窓の外を眺めると、先ほどの客がどこか懐かしさを感じさせるタバコの吸い方をしていた。

『あのお客さんのタバコの吸い方…なんかあの人にそっくりやわ。ふふふ。そやね、あの人のためにも、この子のためにも、ウチ、しっかり前に進んでいくわ。』

千歳には時々、様々な場面で彼の面影が重なって見てしまう時があった。

無意識にも、彼に焦がれ探してしまうのかもしれない。

お客さんが席に戻ったのを確認すると、注文の品を届ける。

『お、美味いなこのパスタ…それより店長さんお腹大きいな、そんなに動いてて大丈夫なんか?旦那さんはおらへんのかい?』

『ええ、ウチ、旦那さんはいないんですよ。でも、この子はちゃんと元気にしてますよ。皆が気にかけてくれてるんで平気なんです。』

客の気遣いに、千歳は嬉しそうに微笑む。

『え、旦那が居らんって…どないしたんや…逃げられたんか!?ど、どこのどいつや…』

客の言葉に、千歳は慌てて説明を始める。

『な、何や逃げられたって!?違いますよ、違います。ウチは一人で子供を育てているんです。ウチにパートナーなんてずっといないんですよ。』

後ろ暗さのない自分の状況を正確に伝えたいという思いが、滲み出ている。

『ほんとに、ワケあってウチはこの子を一人で育てているんです。大好きだった人が残してくれた贈り物を大切に受け取って...これからも頑張っていくつもりなんです。』

『な、なんやて!』

ガタン!と椅子を倒して大げさに驚くを見せた客の突然の行動に、千歳は一瞬驚いた様子だが、すぐに落ち着きを取り戻す。

『あ、スイマセン、パ、パスタの中に麺が入ってて驚いただけなんや、店長さん、スマン、気にせんでくれ…ハハハ』

『パスタやねんから当たり前やろが!』

こうして客の変なノリに合わせながら、今日もこの小さな喫茶店で、誰もが安らげる居場所を作り続けるのが楽しくて仕方ない様子。

『ふふ、ホントに優しいお客さんばかりで、ウチ、本当に皆に感謝しているんですよ。』

『そうか、ほんなら良かった…ありがとう…ほ、ほな、また来年くるで、またな!』

客が時間に追われて慌てたようにカランカランと扉を開けて出ていくと、ヒグラシの鳴き声が一斉に鳴きだした。

あの彼に似た客が去っていった背中に、どことなく寂しさが漂う。

『ヒグラシの声は悲しみがあるんよな...』

千歳は涙がこぼれているのに気づき、慌てて手で拭う。

 

翌年、無事に出産を終えた千歳は調子の良い日、都合の良い日はなるべく喫茶店を開きながら過ごしているが、赤ちゃんを連れて店を閉めてでのんびりと過ごしている事が多い。

この日も店は開けられなかったが、赤ちゃんを抱き、ほっぺたをぷにぷにと押したり歌を歌って聞かせたりしながら、店の中から外の景色を見ているのが千歳のストレスを緩和させていた。

ふと外を見ると、窓から見える位置でタバコを吸っている背中が1つあった。

『あら?お客さんかな?確か、CLOSEの札出しとるよな?』

気になった千歳は赤ちゃんを丁寧にベビーカーに乗せ、OPEN/CLOSEの札の確認に行った。

カランカランと扉を開き、CLOSEの札を確認し、喫煙者をチラっとみる。

『あ、もしかして、いつか来てくださった人かな...ごめんなさい、今日休みなんです』

千歳は優しく声をかけながら、様子を伺う。

喫煙者は慌ててタバコを灰皿に押し付けて消す。

『え!?あ、店長さんやないか、あ、ああ、年に一回、毎年お盆にこの辺にくるもんで、寄らせてもらってるで、毎年ありがとう…そういや確か去年、店長さんの子供がお腹におる言うてたけど…ぶ、無事に生まれたんか?』

線香とタバコが混ざった香りがふわっと漂う。

『あら、そうですか。お盆にこの辺りにいらっしゃるんですね。ほんとに、毎年ありがとうございます。』

年に1回訪れるお客さんも多く、有難い事やなぁと感謝の念を抱く。

『そうそう、あの子は無事に生まれたんですよ。元気いっぱいに育っています。ウチ、一生懸命育てています。今は、店の中で寝てますよ。』

客の顔を覗き込むように、千歳は優しく微笑む。

『そ、そうか!良かった!ああ、良かった!』

『ふふ、嬉しそうですね。』

クスッと小さく笑いながら、千歳はお客様の様子を眺める。

あの彼に似た懐かしい雰囲気が、千歳の心を温かく包む。

『あの子、元気いっぱいですよ。あんなに小さかったのが、もう立派に育ってきました。あなたも、是非会ってあげてください!』

千歳は優しく話しかけながら、店内のベビーカーに人差し指をむけた。

『あ、あかんねん、俺、子供恐怖症やから、あかんねん…見たらボロボロ泣いてしまうかもしれん、絶対引かれると思う』

『子供恐怖症...そうですか。ウチも、恐怖とは違うけどボロボロ泣きましたし、初めはどうしていいかわかりませんでしたからね。』

千歳は少し考え込むように目を細める。そして、優しい笑みを浮かべながら続ける。

『でも、あの子は本当に可愛いですよ。きっと、ボロボロ泣いちゃうほど可愛くて、思わず抱きしめたくなるはずです。せやから少しだけ会ってあげてくれませんか?』

自慢げに話す千歳の目には、母親としての誇りと愛情が宿っている。

『そ、そんな可愛い天使みたいな赤ちゃんやったら、ほな、ちょっと見せてもろてええかな、俺、ホンマにボロ泣きするかもわからんけど、引かんでね…』

『あ、本当ですか!? ちょっと待っててくださいね!』

千歳の瞳が輝きを放つ。お客さんの勇気を喜びながら、慌てて奥に向かって走る。そして、小さな赤ちゃんを抱えて戻ってきた。

『はい、ほら、見てくださいよ。この子、ほんとに可愛いでしょう?』

優しく抱きかかえた赤ちゃんを、お客さんの前に差し出す。

千歳の表情は輝きに満ちあふれ、母親としての喜びがあふれ出ている。

『この子の匂いって、ほんとにいい匂いなんですよ。きっと、この子の可愛らしさに胸が熱くなると思いますよ。』

千歳は、お客様の反応を心待ちにしながら、赤ちゃんを優しく抱き上げる。

『う、うわぁ!ほ、ほんまなやなぁあ……ああっ、こんな可愛い…なんとまぁ、目元なんか店長さんそっくりや…。お願いがあるんやけど、俺、怖くて触れへんから、赤ちゃんのほっぺたプニっとしてもろてええかな、あ、なんて名前なんやこの子は…うぅ…可愛いなぁ…何かしてあげたいわ…うぅ』

『ね!ホンマに泣くほど可愛いでしょう?ほっぺたプニっとしてますよ!この子の名前は美しい幸せと書いてミユキって言います。めちゃ可愛いんです!触ってみてください。』

千歳は優しく赤ちゃんをお客様に近づける。赤ちゃんの健気な表情に、千歳の瞳には涙が浮かぶ。

『あ、あかんねん、俺、ほんまに触れへんねん…うぅ…ああ、あかんあかん、せやけど、ありがとう…』

手を伸ばそうとしては引っ込め、手を伸ばそうとしては引っ込めている。

『男の人は怖がる人も多いですし、大丈夫ですよ、無理に触らなくても。』

千歳はなんとなくお客さんの手が気になり触れる。

『あ、俺に触れたらあかんで!』

お客さんが慌ててバっと手を引き払ったが、その手に触れた瞬間、千歳は生気を一気に抜かれたような急激な疲労を感じた。

『あ、え...な、なんですか?』

お客さんの反応に、千歳は一瞬戸惑いを見せる。

『ちと…あ、ああ、すまん、ホンマにすまん…抱きたいのに、触れたいのに触れられへんねん…なんにもできなくてすまん…せやけどありがとうなほ、ほなまた』

『ど、どうかなさいましたか? 触れたくても触れられないなんて...。でも、ミユキの健やかな様子を見ていただけて、私も嬉しかったですよ。ありがとうございます。』

千歳がふっとカフェの店内を見て振り向くとそこにはもう先ほどの人物はおらず、声を潜めていたヒグラシがカナカナと鳴いていた。

『ウチも疲れてるんやろな…あの人、また来年のお盆に顔を見せてくれるやろか。毎年、この時期に来てくれてる言うてたけど...なんだか気になる人やなぁ』

キャッキャと笑うミユキの健やかな笑顔を確かめる。

『まぁ、それはそれとして、ミユキ。アンタは元気いっぱいで良かったね。これからも、ママが一生懸命守っていくで。』

赤ちゃんを優しく抱きしめながら、千歳は決意を新たにしていくのだった。

 

懐かしい風

『ミユキ、ほら、ここがパパのベッドや。見てごらん、こんなにきれいな場所に眠ってるんやで。』

古ぼけたクマのぬいぐるみを抱きしめる小さな子を抱えながら、千歳は優しく語りかける。

『パパ、ミユキやで。元気いっぱいに育ってるよ。そしてね、ウチ、パパの想いを胸に毎日頑張ってるんやで。』

ミユキの髪を優しく撫でながら、千歳の瞳が熱くなる。

あの彼の想いを胸に、これからも前を向いて歩んでいく決意が、しっかりとここにある。

『パパ、ミユキとウチのこともずっと見守っててや。』

霊園の静寂に包まれる中、千歳は子供の手をしっかりと握りしめる。

『あら千歳ちゃん、お久しぶりね ウチのアホのお墓に来てくれたんやね、ありがとう』

『お義母さん!? お、お久しぶりですね。』

千歳は少し驚きつつも、ミユキをしっかりと抱きしめる。

あの彼の母親と対面し、千歳の心には複雑な感情が渦巻いている。

『ご挨拶に伺えなくてすいません。ウチの子のミユキです、よろしくお願いします。』

千歳は微笑みながら、ミユキの頬を優しく撫でる。

あの彼の母親の姿を見つめながら、思い出を、そしてこれからのことを、思わず語りかけていた。

『・・・そやったんか、そう…ウチの孫なんやね…可愛いわ…ありがとうね、千歳ちゃん。せやけどほんまにごめんなさい、ウチにもいつでも頼ってね、ウチ、ほんまに嬉しいねん』

『ほんまに可愛いんです。ミユキはあの人と笑顔も似ているんですよ。ほら!良ければ、抱いてあげてください』

千歳の瞳には、母親としての愛情と誇りが宿っている。

あの彼の母親は、涙を滲ませながら皆の想いを胸に抱きしめるように、ミユキを優しく包む。

彼女たちを暖かい風がふっと包みこむ。

いつか見た虹の時をふと思い出し、懐かしさに目頭がにじむ。

その空気の中、かすかにタバコと線香が混じった香りがした。

『あぁ、そうか...あの人は、まさか...』

言葉なき想いが感じられる優しい風に包まれながら、千歳はミユキを優しく抱きしめた。

『ああ、アンタが来てくれてるんやな。ありがとう...ほんまにありがとう...見守っていてくれてありがとう。』

千歳はミユキの笑顔を見つめ、感謝の気持ちを胸に刻み込んだ。

 

変な話

『ただいまー!』

ミユキはランドセルを背負って喫茶店に帰ってくると、奥の事務所で宿題をする。

『おかえりー!』

千歳がミユキを出迎えながら、客が誰も居なくなった店内でカチャカチャと皿を洗っていると、セミの声がピタリと途切れ、妙な緊張感が流れていることに気づいた。

千歳は作業を一時中断し、店内を慎重に見渡す。夕闇が差し込む中、誰もいない空間に、懐かしい存在感が漂っているような気がした。

『ふふ...今年も来てくれたのね...』

千歳の心が高鳴る。

ゆっくりと皿を置き、店の隅々を見渡しては深呼吸を繰り返す。

千歳の瞳が、白い煙をぽっぽと吐き出すシルエットに釘付けになる。確かに、あの背格好はかつての彼のようだ。

今年こそはと、千歳はゆっくりとその影に近づいていく。一歩ずつ、不安と期待が交錯する中で、慎重に歩を進める。

『...アンタなんか?』

千歳の声は震えていた。懐かしさと驚きに、戸惑いが混ざり合う。

扉を開き、その人物が本当に彼なのか、確かめるように近づいていく。

『あ、店長さん、灰皿借りてるで』

『ねえ、言ってよ...アンタなんやろ...』

千歳は慎重に歩を進め、深い帽子を被ったかのように釈然としないその人物の顔を覗き込み、長年の別離の中で、時間を止めるかのように、その姿を見つめ続ける。

心臓の鼓動が高鳴り、千歳の瞳には、こみ上げる想いが溢れ出そうだ。

『ちと…な、なにを言うてるのかさっぱりわからへんけど、ちゃうで…』

静寂を切り裂いて言葉を発したのは、喫煙者だった。

『ああ…ごめんね...ほんまに、勘違いしてしもた。あなたがタバコを吸っているのを見てつい...。おかげさまで、また、古い恋を思い出してしまったわ。』

千歳は少し力無く微笑みながら、その人物に向き直る。悲しみと諦めの表情が、千歳の顔に浮かんでいる。

千歳はゆっくりと踵を返し、カウンターに向かって歩を進めていく。

『ねえ、覚えていますか?あの時のこと...ミユキが生まれた時、あなたがボロボロに泣きながら喜んでくれた事を。』

千歳の声色に、懐かしさと寂しさが混在した感情が宿る。

『あのね、あなたが、ウチとミユキのためにあの贈り物を残してくれたおかげで...私、今日まで幸せに生きてこられたんです。』

千歳は優しく微笑みながら、カウンターに座っている彼に似た誰かに語りかけるように話しかける。

『そ、それは俺に言うてるの?』

『いえ、私はあなたのことを、かつての大切な人に重ね合わせてしまっただけです。』

千歳は丁寧に頭を下げ、ゆっくりとカウンターの奥へと歩を進めていく。

千歳の表情は寂しさを秘めつつも、前を向いた決意に満ちていた。

『変な話を1つするで? ホンマに変な話やけども、1.真実を知れば二度と会えなくなる大事な人  2.真実を知らずに年1で会える他人 という選択肢ならどちらがええと思う?』

千歳は少し考え込むように目を細め、あの彼のことを思い出しながら、その問いかけに応えた。

『ふふ、そうですね。その選択肢は難しいですよ。真実を知れば、二度と会えなくなるのは寂しいです。でも、それでも一年に一度でも会えるなら...私はそちらを選びたいです。せやけど、他人か…うーん』

千歳は優しく微笑みながら、問いかけた人物の方を向く。

『でもウチは、年に一度、アンタがこの店に来てくれるのを楽しみにしてんねん。もうずっと、ウチは幸せよ。』

千歳の瞳には、希望と決意の光が宿る。

『そ、それはもう真実を知ってるかのような口ぶりやんけ…』

『そうね、アンタの言うとおり。ウチはもう、真実を知っているんかもしれへん。』

千歳の目は、しっかりと相手の表情を捉えている。しかし、その瞳に宿るのは、痛みや悲しみではなく、むしろ強い決意に満ちている。

『でも、それでも構わんのよ。アンタが、いつもいるのを、ウチは知ってるんやから。』

千歳は静かに語りかける。

『せやから、もし、アンタが姿を消してしまっても...ウチはアンタの想いを、ミユキの中で生き続けさせていくで。』

千歳の表情には、悲しみや後悔の色は見られない。

むしろ、温かな優しさと、希望に満ちた決意が宿っているのだ。

『千歳…おおきにな。俺はもう死んでるから、ほんまは会ったらあかんかったんや…出しゃばってすまんかった…』

この人物の姿が徐々にはっきりと見えてきた。あの頃と変わらぬ、その笑顔に心奪われる。しかし、もう二度と逢えない、という寂しさはない。

『ウチはアンタの想いを、ここで感じとるから。ウチとミユキのこと、いつも見守ってくれてありがとう。』

千歳は少し涙ぐみながら、でも満足げな表情を浮かべる。

『接触はもう無理やけど、お前が俺を覚えてる限り俺はお前たちを見守れるから…せやけど、俺の事は忘れて幸せになってくれてええんやからな。ありがとう』

『ミユキのために、ウチはアンタの想いを胸に刻み続けていくわ。アンタが永遠に見守ってくれていることを、ウチは確信してんねん。』

千歳は優しく微笑みながら、彼の面影に触れようとする。しかし、その手は空しく空中をかすめるだけだった。

『千歳…ありがとうな…俺も俺の出来る事でミユキとお前を守っていくからな…ほんならまた会う日まで』

『ウチ、最高の母親になるためにがんばるわ。』

セミがギャーギャーと騒ぎ立てると同時に、千歳の目から、大粒の涙が流れ落ちた。

『最後に少しでもちゃんと話したいと思ってしまったけど、ウチ、これで満足や』

千歳を心配そうに見上げるミユキの中に宿る彼の面影に、微笑みを返すのだった。

 

リピーター

あれから、50年が過ぎ、現在、千歳の周りには愛おしい家族の姿がある。

静かに流れる時間の中、千歳はミユキ夫妻と孫に囲まれ、心地よい空気に包まれている。

千歳と彼の想いが、この家族に宿っているのを感じ取れる。

ふんわりとした風が千歳の周りに優しく包み込むように広がっていく。

『ふふ...やっぱり、ずっとそばにいてくれたんやな、アンタ...』

『ああ、心配すな、俺がお前の痛みを全部取ったる、安心してや』

懐かしい声に包まれて、千歳は安らぎの中へと導かれ、これまでの苦しみや悲しみが、ゆっくりと解き放たれていくのを感じる。

『皆、ありがとう...ほんまにありがとう。』

千歳の唇に優しい微笑みが浮かび、満足げな表情で瞳を閉じた。

心臓の鼓動が静まり、痛みがしだいに消えていく。

千歳は静かに瞳を開き、愛しい姿を見つめる。

その目には、懐かしい優しさと、これからの希望が宿っていた。

彼の温かな手に包まれ、千歳はうっとりとした表情を浮かべる。

『なぁ千歳、お前の人生がどんな人生やったか教えてくれ…幸せやったか?』

問いかけに、千歳は少し考え込むように目を細める。

自分の歩んできた人生を振り返る中で、千歳は優しく微笑みを浮かべる。

『ウチの人生?ふふ、アンタがおらんくなった人生は、めっちゃ長くて、ほんまに最悪で最高だったわ。そやな…時に喜びに満ちていたり、時に悲しみに包まれることもあったわ。せやけど、そんな人生だからこそ、ウチは今ここにおるんやと思う。』

千歳の瞳には、人生の軌跡を重ねるように輝く光が宿る。

彼との出会いや別れ、ミユキとの思い出や決断など、千歳の人生を彩った大切な出来事が、その中に反映されているのがわかる。

『そやけど、やっとここまでこれたんや、これからはアンタと一緒に、悠久の刻を過ごしたいわ。』

『ほんならここからもう一度やり直そうか』

千歳の瞳に、一瞬驚きの色が浮かび、そして懐かしい思い出が蘇る。

『なんやねん...そんな言葉...あの時はウチを置いて行ってしもたくせに...』

震える声で言いながらも、千歳の目には涙が溢れ、彼の胸に顔を埋めるように近づく。

『でも今度は...今度は違うんやろな。もう二度と離れへんって約束してくれるんやろね...ウチ、もうアンタと離れたくないねん。あの時みたいに、一人で寂しい思いするんは...もうイヤや...』

千歳の手が彼のシャツをぎゅっと掴む。

声は小さいが、その言葉には強い想いが込められている。

『せやから...せやから今度こそ、ウチと一緒にいてな。ウチな、アンタのこと、ずっと好きやってん。ミユキを育てながらも、アンタのことばっかり考えてた。もう二度と離れへんって...約束してよ...』

千歳の声は次第に優しくなり、安心感に満ちていく。

これまでの人生で味わってきた寂しさや悲しみが、アンタの存在によって癒されていくのを感じている。

『済んだことやないか…ハハハ』

『アァ!?なにヘラヘラ笑とんねん!殴るで!』

怒りながらも千歳の瞳から涙が溢れ出て、心の奥底に眠っていた想いが一気に込み上げてくる。

『せやけど、やっぱ好きやねん...悔しいけどあかん、アンタよう忘れられへんかってん...』

震える手で握っているシャツを強く握りしめ引っ張りながら、千歳は続ける。

『ウチな、アンタと別れてからずっと...毎日毎日アンタのこと考えてた。ミユキの中にアンタの面影を見つけては泣いて...でもな、アンタの想いを受け継いだミユキを育てることが、ウチにとっての生きがいやったんや。』

千歳の声は次第に柔らかくなっていく。

『ここまで来たんや、きつく抱いて...もう二度と離さんって言うてよ。ウチ、アンタやなきゃあかんねん。あの頃みたいに...あの頃のように...アンタの胸で眠らせて...』

千歳の体が彼の温もりに包まれる中、長年抱え続けてきた想いが、歌のように溢れ出していく。

『ほんまに...ほんまにアンタが好きで...好きで...たまらんよ...』

 

執筆後記と補足

たかじんさんの『やっぱ好きやねん』と『お盆』をテーマにした創作でした。

さて、文中に織り込めなかった部分を少し補足しますが[彼]が千歳や美幸に物理的に触れられなかったのは、生気と言うか寿命を吸い取ってしまうからです。この吸いとった寿命の分だけ現世に長く居られることになり、そのために寿命を吸い取る亡霊は悪霊となると作者は考えています。

それと、毎年彼が現れるのは、蜩の鳴くお盆の1日だけです。ちなみに彼が吸っていたのは、線香と煙草が混ざった煙で、霊体を短期間だけ実体化させるアイテムです。

約2万文字、何度も書き直しては自分で泣くという気持ち悪い作業を繰り返しました。

 

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