延享二年、六月二十九日。
からりと晴れ渡った深川の朝、
堀割沿いに揺れる青柳の影を、
竹の釣竿を肩に担いだ四つの若い影が、
素足に下駄をカランコロンと鳴らして歩いていた。
男物の擦り切れた黒羽織を粋に引っ掛け、
真ん中を叩き潰した「つぶし島田」の髷(まげ)を揺らすのは、
鳶吉、茶々丸、梅奴の三人。
そしてその真ん中で、同じく仕立て直しの黒羽織を羽織り、
真新しい柘植櫛(つげぐし)を挿したおこう改め「菊弥」が、
下駄の音に合わせるようにおずおずと歩調を揃えていた。
茶々丸が竹竿の先を揺らし、流し目で菊弥を覗き込む。
「菊弥さん、仲町の置屋にはもう馴染んでるかい?」
菊弥は両手で大切に抱えた竹籠をぎゅっと抱き直し、苦笑いを浮かべた。
「うん……トメさんが、ちょっと怖いけど……」
鳶吉が男物の羽織の袖をまくり上げ、ケラケラと笑い飛ばす。
「平気平気! 糞婆の唾は飛んでくるけど、殺しゃしないよ!」
茶々丸も胸を張って鼻を鳴らした。
「そうそう! 勝代姐さんなんかさ、
顔を合わせるたびに減らず口を叩いて怒鳴り散らしてるのに、
今でもピンピンして蔵でのうのうと暮らしてるじゃないか!」
菊弥は小首を傾げ、大きな目を瞬かせた。
「それは……勝代姐さんと皆さんが、飛び切り強いからじゃないのかな……」
梅奴がふと堀割の石垣の先を指差し、甲高い声を上げた。
「あ! ハゲ辰がいるじゃないかい!」
堀割の船着き場の杭に腰掛け、手ぬぐいを首に巻いて煙管を吹かしていた禿頭の大男が、カッと目を剥いて跳ね起きた。
「ハゲは余計だ! 久しぶりだな、小娘共!」
その隣の木陰で、
太い丸太に腰を下ろして腕を組んでいた源三が、のっそりと顔を上げた。
「なんだ、おめぇらかい。今、ハゼ辰からよ、
俺達三人と再会した富士川の後の『航海記』を聞いてたところなんだよ。
おめぇらも聞くかい?」
茶々丸がすかさず竹籠を差し出し、唇を尖らせた。
「え?船に乗って漂ってるだけの話だろ…エサくれたら、聞いてやろうかね!」
ハゼ辰が手ぬぐいを振り回して怒鳴る。
「相変わらず図々しいな、ポン太めが!」
「ポン太じゃないもん! 茶々丸だもんね!」
鳶吉が茶々丸の肩を叩いて大笑いした。
「そうそう! ポン太は茶々丸になったんだよ! な! ポン太さん!」
「だからぁッ!」
菊弥が慌てて割って入り、ぺこりと頭を下げた。
「は、初めまして! 菊弥です! よろしくお願いします!」
源三が太い眉を動かし、まじまじと娘を見つめた。
「おお、おめぇが菊弥かい。阿保の勝代とオカマのお菊から聞いてるよ。
俺は木挽きの源三。で、こっちの頭が光ってるのは、無職の辰五郎だ」
ハゼ辰が額に青筋を立てて吠え返す。
「誰が無職だッ!
命がけで海を渡ってきた船乗りを捕まえて無職とは何事だ!
……まぁ、船をつけちまったから、またしばらく暇になるけどな」
鳶吉がニヤリと口元を歪め、からかい半分に突っ込んだ。
「あたしたちゃ知ってるんだよ!
両国の力士の見習いのくせに、相撲部屋のちゃんこを食い逃げして親方にめちゃくちゃ怒られたから、木場へ逃げてきたんだろ?」
ハゼ辰が地団駄を踏んだ。
「相撲取りになったことなんざ、生まれてこの方一度もねぇよッ!!」
娘たちの笑い声が堀割の水面に弾ける中、菊弥が不思議そうに首を傾げた。
「あの……辰五郎さんは、駿河の国から船でいらしたんですか?」
「おうよ、菊弥のお嬢さん」
辰五郎は手ぬぐいで汗ばんだ禿頭を撫で下ろし、
煙管をくわえ直して得意げに胸を張った。
「六月十五日の昼、富士川の河口
――岩淵の河岸で、旅車を引いた源三や勝代の野郎共とばったり出くわしてな。
あの後、俺は鰍沢から流れてきた丸太を河口で引き揚げて筏に組み、
駿河湾の沖に待たせてあった千石積みの大型材木廻船へ運び込んだのよ」
源三が煙草の煙を吐き出しながら口を挟む。
「あの時おめぇ、『早くて十三日、遅けりゃ一月はかかる』って威張ってただろ。
今日で十五日目ってこたぁ、運が巡ってるじゃねぇか」
「それなんだよ!俺たちゃ奇跡的な順風に乗ったんだ!」
辰五郎は身振り手振りを交え、力説を始めた。
材木廻船は、扇屋一社だけのものではない。
深川木場の材木問屋仲間が寄り合いで仕立てた大船で、
甲斐や駿河から買い付けた赤松や杉の丸太を千本以上も呑み込んでいた。
「普通ならよ、駿河湾を出たところで西風に阻まれるか、あるいは伊豆半島の先っちょ――あの難所の石廊崎(いろうざき)の荒波を前にして、風待ち潮待ちで一週間は足止めを食らうのが当たり前なんだ。ところがよ……」
辰五郎の目が爛々と輝いた。
「石廊崎へ差し掛かった途端!
南西から驚くような追い風がだ!
帆を割らんばかりにビッシリと吹き込んできやがったのよ!
船頭も三十年海に出てこんな神風は滅多にねぇって拝み倒したくらいだ。
相模湾を一気に滑り抜け、浦賀水道もすんなり抜けて、
今朝がた江戸湊へ滑り込んできたってわけよ!」
梅奴が目を丸くした。
「へぇ! じゃあ、もう材木は扇屋に届いたのかい?」
「いやいや、まだ荷揚げの真っ最中よ」
辰五郎は苦笑いしながら首を振った。
「巨木を海へ降ろして筏に組み直し、
木場の貯木場へ引き込むんだから、そう簡単には終わらねぇよ。
人足共が汗だくでやってる合間によ、潮が引いて作業が一息ついたから、
俺は抜け出して小名木川のハゼの顔を見に来たんだ」
「なんだ、やっぱりサボりじゃないか」
茶々丸が鼻を鳴らすと、源三が太い腕を組んでガハハと喉を鳴らした。
「おいおいハゼ辰。お前が海の上で神風だのなんだの言ってる間に、
俺達はとっくに自前の足で峠を越えて江戸に着いてたぞ」
「なにィ!?」
辰五郎が目を剥いた。
「あの変な三輪車を引いてか!?」
「おうよ。おめぇの船を断って正解だったわい。歩いた方が百倍早かったぞ。
それどころか、あいつらは浅草の花川戸の土蔵に居座って、たらい舟で海まで流されて釣ってきたカレイを七輪で焼いて食うわ、浅草寺の無頼の一家が乗り込んできたと思ったら、逆に向こうの親分が平伏して極上の蒸し羊羹と雷おこしを置いていくわ……
俺も巻き込まれて心臓が痛ぇったらありゃしねぇ」
辰五郎はあんぐりと口を開け、手ぬぐいを落としそうになった。
「……お、おいおい!
源三、おめぇまで一緒になって、
江戸へ戻るなりまたそんなでたらめをやらかしてんのかよ……!
船に乗せなくて大正解だったぜ!
あんな骨女やオカマ大工を積んでたら、
海神(わだつみ)の怒りを買って船ごと沈没してたわい!」
「あはははは!」
四人の娘たちが一斉に吹き出し、深川の掘割に涼やかな笑い声が響き渡った。
辰五郎はぶつぶつと文句を垂れながらも、腰にぶら下げていた竹筒から、泥にまみれた瑞々しいゴカイの束を鷲掴みにして、茶々丸の竹籠へ入れてやった。
「ほらよ! 景気付けにくれてやる!
その代わり、今日はデカいハゼを十匹は釣り上げて、夕方に扇屋へ持ってこいよ!」
茶々丸が目を輝かせ、竹竿を天に突き上げた。
「任せときな! 菊弥さん、行こう! 万年橋の袂へ一番乗りだよ!」
「うん! 辰五郎さん、源三さん、ありがとうございます!」
菊弥が小走りに三人娘の背中を追い、
素足の下駄が真夏の板橋をカランコロンと軽快に鳴らして駆け抜けていく。
男物の黒羽織を風にはためかせ、
深川の眩しい陽光の中へ飛び込んでいく四人の後ろ姿を、
源三と辰五郎は煙管の煙をくゆらせながら、
目を細めて見送っていた…
が、釣り竿を持って戻ってきて、
横にずらっと並んで座り始めた。
「ハゲ辰がいるとこが釣れる場所ってことじゃないかい」
「もう、めんどくせぇ、ハゲでもなんでもいいわい…」
川風にはかすかに潮の香りが混ざり、
大江戸の夏が、
いよいよ本格的な熱を帯び始めていた。